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最期の言葉

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乳がんで闘病していた小林麻央さんが最期に「愛してる」という言葉を残して亡くなったと、夫の市川海老蔵さんが話していました。亡くなる前日からずっと話すこともできない状態だったというのに。

この話を聞いて、私も祖母の最期を思い出しました。

同居していた祖母は、転倒によって腰の骨を折って自宅で寝たきりとなりました。それは同時に私たち家族の介護生活の始まりでもありました。私が小学5年生から高校3年生までの7年間です。

今のような介護保険制度もない時代です。寝たきりの家族がいると、全員で出かけることができなくなります。私たちも家族で旅行に行くことはなくなりましたし、外出でさえ誰かが残らなければいけなくなりました。まだ子どもだった私も姉も、時には母の代わりに下の世話をしました。

祖母はしっかりした人で、長い寝たりきり生活でも認知機能が衰えることがありませんでした。家族の誕生日になると自分の部屋に呼び入れ「お誕生日おめでとう」とお小遣いをくれました。「今年も忘れずお祝いしてくれた」と毎年感心したものです。

それだけしっかりしていただけに、寝たきりになった当初は大変でした。「足が動かない」といら立ち、足をたたいたりかきむしったりするのです。そのいら立ちは一番身近な母にも向けられました。きつい言葉の数々に、母はよくこっそり泣いていました。今なら祖母のいら立ちも理解できますが、当時はなんてわがままなんだろうと思ったものです。

祖母のいら立ちは徐々にエスカレートしていきました。ある日気に入らないことがあって、その場にあった物を母に投げつけたのです。それを聞いた父はとうとう爆発します。「世話をしてもらっている人に、ものを投げるとは何ごとか」と。

父は自分の兄弟の家に祖母を預けることに決めました。ところが預けた兄弟の家2軒とも、面倒を見きれず早々にギブアップし、祖母は1か月も経たないうちに我が家に戻ってくることになったのです。

また私たちの介護生活の始まりです。

父がいない夜は母と私でお風呂に入れるのですが、これがなかなか大変でした。細くて小さい祖母ながら女性2人で抱えてお風呂場まで連れていくのは一苦労。湯船に入る時は母が抱いて一緒に入るのですが、お風呂好きの祖母は気持ちがいいのでなかなか出ると言わないため、母はのぼせてふらふらになることもしばしば。「出るよ」の一言で、外で待機していた私がバスタオルを持ってお風呂場に入り、また2人で抱えて部屋に戻ります。

往診に来てもらっていたかかりつけの医師も「ほんとうによく介護されていますね」といつも感心していました。部屋が臭わず、床ずれも全くなかったからです。きれい好き、世話好きの母の頑張りのおかげです。

そうした介護生活が7年続いた頃、祖母が体調を崩し入院します。入院期間が延びるにつれ、祖母はしきりに「家に帰りたい」と訴え出しました。すでに食べられなくなっていたため「家に帰れば1週間ほどしかもちませんよ」と担当医。

私たちは悩みましたが、弱々しい声で毎日「帰りたい」を繰り返す祖母の姿に連れ帰ることを決意します。家に帰った祖母は自分の部屋をきょろきょろ眺めほんとうに嬉しそうでした。けれど聞いていた通り1日1日弱っていき、最後の3日間はただ眠るだけの日々。もう目も開けなくなっていました。

最期も近いと家族で見守っていたところ、ただ眠っているだけだった祖母が突然目を開け、今にも起き上がらんばかりに体を持ち上げて、大きな声で叫んだのです。「ありがとう」と。ほどなくして祖母は亡くなりました。

「ありがとう」はそばにいた母に向けられていました。私たちは目の前で起こったことが信じられず、しばし呆然としましたが、我に返った時、心に温かいものが広がっていくのがわかりました。母の目は涙でいっぱいでした。

多くの人は静かに亡くなっていくのだと思いますが、こうして奇跡のように言葉を、それも残していく人が幸せになる言葉を最期に残していく人は、きっとその人自身も幸せな人生だったのではないかと思うのです。だからこそ思いを伝えたくて最後の力を振り絞るのではないのかと。

麻央さんも、うちの祖母も、きっとそうだったと信じたいです。

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