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目に焼き付いている福島の姿

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東日本大震災から今日で6年。私も3年が過ぎた頃、初めて福島に足を踏み入れましたが、そこで見た光景は今も忘れられません。それほど強烈でした。負の遺産を訪ね、そこで起きた事実を目にすることはほんとうに大切だと実感しています。振り返りのために、過去に書いた記事を載せておこうと思います。忘れないために。繰り返さないために。

 

「福島は私たちの明日の姿」(2014年6月掲載)

3年目のイベントが終わり、町が静けさを取り戻した3月末、遅まきながら福島に行ってきました。

レンタカーで福島市を出発し、津波被害マップを見ながら車を走らせます。一本道を延々走り続け、福島は広いと実感しました。被害の大きかった海岸線は当時の様子がわからないほど整備が進み、元の姿を知らない者には、被害状況は全く見えません。

「ここがこんな状態だったのか」と震災当時の写真と見比べながら走っていると、突然、爪痕がしっかり残る場所が現れました。建物は残っているもののよく見ると中がくりぬかれた状態の家、流されたまま放置された車。「なぜここだけ?」と初めは不思議でしたが、すぐに放射線量の高い地域であることがわかりました。そこはこれまで見てきた景色とは明らかに異なり、まさに置きざりにされた場所でした。

そしてその後、もっと大規模に時が止まった浪江町にたどりつきました。避難指示解除準備区域及び居住制限区域が多い浪江町は、異様な様相を呈していました。町を貫通する大通りは一般車両も入ることができましたが、そこから枝分かれする住宅地への道は規制され、通りの入口では警備の人たちが通行チェックをしていました。そのまま原発まで走らせるつもりでしたが、昨日まで生活していた状態のまま、人が全くいない町は物悲しく、とうとうその中を走り続けることに耐えきれなくなって、途中で引き返してしまいました。これが原発事故の現実だと突き付けられました。

そうして最後に原発から60キロほど離れた伊勢市にある公共の宿『つきだて花工房』を訪れ、交流課長の千葉英行さんにお話を伺いました。伊達市は津波被害がなかったため、自分たちは恵まれていると、初めは不自由な生活をみな静かに受け止めていたといいます。けれど関係ないと思っていた放射能汚染が深刻なことがわかるにつれ、住民の戸惑いと情報を隠されていたことへの怒りが沸いてきたといいます。

伊達市は兼業農家が多く、地元野菜を販売していた『つきだて花工房』には、連日「この野菜は孫に食べさせてもいいか」と農家から持ちこまれるようになります。「何も知らないままではいけない」そう感じた地元の有志は、ほどなく専門家を呼んでの勉強会を重ねますが、知れば知るほど苦悩が深まったと千葉さん。国は何もしてくれず、結局最後は住民に「自己選択」を迫るだけだからです。知識が増えても、そのことで地元の人々が救われたわけではないのです。

「いろいろな考えがありますが、私はまず大人は子どものことを一番に考えてほしいと思います。子どものいない町に未来はないのですから」住民の様々な姿を見てきた千葉さんの言葉が響きました。

60キロという距離はとても長い。それでも放射能の影響は受けるのです。千葉さんたちの姿は、今各原発から何十キロも離れたところに住む私やあなたの明日の姿です。福島の短い旅は、その現実を「我が事」に変えてくれました。

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