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『コウノドリ』セリフに響く

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『コウノドリ』というドラマが好きです。産婦人科を舞台に、社会的な問題を絡めながら出産について描いています。というとシビアなドラマに思えますが、全体に流れるトーンが優しくて、見終わったあと、温かい気持ちに包まれます。この世に命を送り出すことはある意味、奇跡なのだ、というドラマのコンセプトにも共感します。

私は初めての子を流産し、子どもを産むことは簡単なことではないと知りました。胎児を取り出す手術後、一日だけ同じようなトラブルを抱えた妊婦さんたちと過ごしました。ある人は「不育症」といって妊娠はするけど、育たない。出会った時は6回目の妊娠でした。「今度はどこまで育つかな」その笑顔に、返す言葉がみつからなかったことを思い出します。

10月からシリーズ第2弾が始まりました。第1話のあるシーン、セリフが心に響いたのです。

「病気の重さと患者さんの抱える心の重さは必ずしも一致しない」

妊婦が、お腹の子どもの心臓に穴が開いていると告げられます。医療的には、胎児の症状はそれほど心配のいらないものです。出産後自然にふさがることもあるし、そうならなくても手術すれば治る。それでも母親は深刻になります。心臓に穴が開いている赤ちゃんをちゃんと育てられるのかという不安。大きなプロジェクトを率いる立場ながら仕事を休んでいる負い目。それらが重なり、より深刻になっていったのです。

胎児の病状を担当医から聞いていた若い産婦人科医は、この母親の心の重さが理解できません。そこでベテラン医師が諭した言葉が「病気の重さと患者さんの抱える心の重さは必ずしも一致しないものだよ」だったのです。

病気はその重さで、はかられることが多いものです。重ければ大変で軽ければ楽。もちろん体の負担はその通りなのですが、心の負担はそうとは限りません。ましてやこの場合、自分ではなく子どもの病気。親の心の負担は大きくなりがちです。

病気だけに向き合える人と、介護や責任ある仕事など、多くを抱えている人とでは、明らかに負担感は違ってきます。日々いっぱいいっぱいで生きている人なら、負担が少し増えるだけで、心の許容量が超えてしまうこともあるのです。

 

がん医療でも病気の重さで心の重さがはかられる

がんも病気の重さで心の重さが判断されがちです。病期がはっきり判定され、病気の重さが見えやすいこともあるのだと思います。

がんを体験した医師が「転移もない初期の患者が、再発の心配をすることに付き合わない」と書いている記事がありました。自身ががんを体験したことで、「軽い人には厳しく突き放してもいい」と結論づけたとか。私には違和感がありました。この医師も病気の重さと心の重さを単純にとらえているように思えたからです。

知り合いが乳がん検診でひっかかり、精密検査を受けました。心配する彼女に「がんだったとしても案外大丈夫なものよ」と、軽く声をかけた経験者がいました。つらい治療を経験した人です。相手は「そうですね」と答え、そのあとこの話題に触れなくなります。触れられない、が正しいかもしれません。経験者、それも辛い治療をした人に「がんでも大丈夫よ」と言われたら、精密検査の段階で心配を口にすることはできません。

人間は忘れる、だから生きられるのかもしれませんが、時に都合良く忘れます。あんなに苦しんだはずなのに、治療を終えて時間が経つと「案外大丈夫だった」と思えてきます。かっこ悪く、もがいたはずなのに、強く立ち向かえた記憶にすり変わることもあります。そんなことが、相手の心に添えない声かけにつながるのかもしれません。

大変な体験をした人の言葉は重い。それだけに発する言葉次第で、心配する相手の弱さを封じ込める危険性もあるのです。

検診で引っかかった人も、がんと言われた人も、初期だった人も、進行していた人も、みんなそれぞれに悩み苦しみます。外からの勝手な判断で、心の重さまで順位付けられると、「つらい」という声を上げられない人が出てきてしまいます。

「病気の重さと心の重さは必ずしも一致しない」心にとどめておきたい言葉です。

『コウノドリ』次はどんな言葉が聞けるのでしょう。次の放送が楽しみです。

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