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終末期医療を考える

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終末期医療を考える

ここでは終末期への移行がうまくいかなかった例を挙げていますが、在宅医療とも連携させて、一人の患者を多くで支え見送った、素晴らしい事例もたくさんあります。一人でも多くの方が穏やかに生を全うできるような環境が、今後ますます整っていくよう願います。

 

「終末期医療を考える」(2015年9月号掲載)

がんについて学んでいくと、誤解していたことがたくさんあることに気付きます。その一つが「余命」です。

「余命3か月だったのに、1年生きています」などという記事が出ると、「奇跡の」などと形容されたりします。けれどこれは奇跡でもなんでもありません。なぜなら医師が口にする余命というのは、生存期間の中央値を指していることが多いからです。

つまり半分の人は余命とされた年月よりも早く亡くなるし、もう半分の人は長く生きます。けれどこうした説明を伴った余命宣告を受ける患者はどれだけいるのでしょう。

末期がんだった病気仲間も、長く治療を受けてきた病院で、もう治療法はないのでホスピス行きを考えるよう宣告されました。それを知った私も大きな衝撃を受けます。「こんな大事なことがこうもあっさり告げられるのか」と。

もちろん本人は、治療法がなくなりつつあることを自覚していましたし、長くは生きられないこともわかっていました。とはいえそれまでぼんやりとしていた「死」が、近い現実のものとして突き付けられたのですから、激しく動揺します。けれど彼女の様子が、病状を理解していないように見えたようで、その後は診察の度に、主治医のみならず看護師からも同じ説明や質問が繰り返されました。

それでもまだわかっていないと思われたのか、ある時看護師から「先生の言っている寝たきりというのは余命のことなのよ」と噛んで含めるように余命宣告されます。ここで彼女は完全に心を閉ざしてしまいます。なんでこの人に余命宣告をされなければいけないのかと。

私も入院中に予想外のことが起こり、初めて心と頭が一致しない経験をしました。頭では今置かれている状況やこれからどうすべきかがよくわかっているのに、心がついていかず、現実から逃げる方法ばかり考えました。

彼女は命を限られたのですからこんな比ではありません。そんな時に理解させようと躍起になっても、患者の心は離れていくばかりです。こんな頭と心がバラバラな時には時間が必要です。けれど今の忙しい医療現場では、じっくり待ったり話したりする余裕がなく、両者の溝は深くなる一方でした。

急性期病院では治療法がなくなった患者を診続けることは難しく、乱暴に余命やホスピス行きを宣告されることがあります。こうした告知によって、医療者に見捨てられたと傷ついた患者を、あとからケアすることは難しいものです。先の知人は医療者不信に陥りましたし、別の友人は怪しい医療にすがって亡くなりました。

より良い最期に導くためには、終末期医療へのスムーズな移行が必要です。そのためには、医療者と患者が密に話し合える関係が不可欠です。それだけにここに至るまでどれだけ関係を積み上げられたかは重要な要素になります。けれど闘病が長くなると担当医が変わっていくことも多く、この積み上げができないまま重大な局面を迎えることがあるのも現実なのです。

そしてもう一つの課題が、がんを縮小させる治療と痛みを押さえる緩和治療を線引きする、今の医療のとらえ方です。この緩和ケアについては次回に。

 

 

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